師僧の一日は早い、最近は特に早くなった。本堂を開け朝勤、この三年程はほとんど休むこともない。終えると境内をゆっくり歩き歩きしながら朝食に。
食後は保育所へ、欠かさず顔を出すから子供達があっという間に集まってくる。後は新聞や読書、庭いじりなど気の向くまま緩やかに時間が流れていく。午後は、幼い頃から面倒を見てきた知的障害の人達やご近所さんが隣の「繋珠堂」にやってくるので、他愛のない話をして過ごす。夕勤を終えると本堂を閉め温泉、風呂上がりのビール、興が乗ると水割をもう一杯。就寝は早い、最近は特に早くなった。
昨年十月、癌の告知を受け、それでも何事もなかったように相変わらずの日々。自分は、その頃から繋珠堂で交わされるその会話に耳を傾けるようになった。歳の差、障害や疾病の有無といった様々な壁が取り払われたようなフラットな会話が心地いい。 |
日蓮聖人が上行菩薩と並んで重視した常不軽菩薩、鳩摩羅什訳は「常に軽んじない菩薩」。昨年から妙應寺で法華経講座を開かれている植木雅敏先生は、「常に軽んじないのに、常に軽んじていると思われ、その結果、常に軽んじられることになるが、最終的には常に軽んじられないものとなる菩薩」と訳す。世界初になるというこの訳は、菩薩の一人称ではなく(無我ともいうか)、人と人とが織りなす相互の関係性を表している。
宮沢賢治は、「雨ニモマケズ」で常不軽菩薩をモデルに「デクノボー」と称し
「東二病気ノコドモアレバ 行ッテ・・・」
「西ニツカレタ母アレバ 行ッテ・・・」
「南二死二サウナ人アレバ 行ッテ・・・」
「北二ケンクヮヤソショウガアレバ・・・」
これが書かれた手帳の原文には「行ッテ」という言葉が四回も使われていることになり、賢治は自分が持っている力を人のために役立てようとした時、誰かがやって来るのをただ待つのではなく自らが出向いていくことを非常に大切に考え、この詩の最後には「ソウイフモノニ ワタシハナリタイ」「南無妙法蓮華経」と記している。
今年の七月初旬、ここ五年程続けてきた親子旅行を終えた翌日に入院。いよいよ好きな酒も叶わず(とはいえ病室で何度か水割を飲んでいる(苦笑))、話すこともおぼつかなくなってきた。そんな中、先出の面倒を見てきた知的障害の連中が連日やってきては「おい、何しとるんや」「寝とる場合じゃないやろ」などというと俄かに精気を取り戻しては「こんなにたくさん人が来るということは、俺もそろそろ死ぬんか?」などととぼけた顔をする。
「まずは臨終のことを師僧に習うべし」ということか。
蓮昌寺 住職 雄谷良成
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この文章は、妙林山行善寺四十六世松月院日助上人(社会福祉法人佛子園 会長 雄谷助成)御遷化直前の令和元年九月六日当日未明に書かれたものです。